三善晃公開講座より

場所:藤沢ヤマハホール

日時:20031119日(水)10:3012:30

<講義内容より。なお感想は⇒以降に追記してある>
1.ラベルの音楽を理解する上で把握すべき背景について

(1)フランス語の特徴
@ フランス語を正確に子供に使えるというのは教育の指針となっている(誇りがあ
る)。フランス語には明晰でない言葉はない、と言われるくらい論理的な言語であり、無駄な言葉は入れない、そして論理が伝わるようにできている、という特徴が ある
A パリのオペラ座を立てた建築家カルニエは、「フランス語とは一つ一つの単語という単位(レンガ)を組み合わせて建てた建築物のようである」と言っている。
B ヨーロッパの建築は窓との戦いと言われる。レンガの建物で窓をつけると構造的に弱くなる。そこには力学的論理がいる。それがフランス語そのものである(フランス語の論理性の源)。
(2)理知的な批判精神
フランス人は誰もが一人一人が理由を言う。演奏会の批評でも昨日の料理についてでも議論を行う。演奏会のどこが良かったかその感じ方が自分とどう違うかという議論になったり、夕食のワインの選定についての議論をしたり、そのようなことが会話となっている。一人一人が自分の考え持っていて批評できる、そういう文化がある。
(3)古典への敬愛
フランスにとって古典とは18世紀のことである。18世紀はヨーロッパの光の時代。
この光とは、ヨーロッパの森を刈って牧草を植えたため実際光が当たったという背景と啓蒙主義→産業革命という技術文化の光という両面がある。
この光の時代(18世紀)に育った芸術に対し敬意を払っているのである。
教会旋法を多用するというのもその現れと見る見方もある。
(4)視覚的身体表現の重視
フランスではバレー音楽が多い。
バレーとは舞台上の身体的表現であり志向性が強い。
町行く人たちでも皆舞台に登場してもおかしくない身なりと風貌、様子がそこにはある。
日本人の会話は一見おとなしそうに見え実は平行線という形が多いが、フランス人の会話は議論になるため会話の初めと終わりでは異なった結論に至っている場合が多いのである。
(5)表現そのものの完璧志向
音楽教育にはフランスを代表とするラテン系とドイツを代表とするゲルマン系がある。日本ではまずゲルマン系音楽教育がなされている。
ゲルマン系教育では例えば和声の課題に対し和声理論的に間違っていない解答をすればそれは合格となる。
しかしラテン系教育においてはこれは全く意味を持たないとの評価となる。つまり課題に対する最高の回答は唯一つあり、それにいかに近づくかということが価値を決める。出来上がりが良いか悪いかということそこに真実がある。
後にゲルマン系音楽が表現主義を、そしてラテン系音楽が印象主義となって行くのである。
(6)吸収性と革新性及びスペイン、アジア、ジャズなどへの志向性
フランスには人種の問題がある。
実際パリにはアフリカ、アジア、他多数の人種が存在するものの人種同士のいがみ合いはない。
人種を全て受け入れ、その受け入れた全てがフランスなのである。
ラベルの音楽にアジア系旋律が出てきてもそれを含めてラベルの音楽となるのは、このようなパリの芸術、フランスの概念への統一性ということに源があると言えるのである。
(7)象徴詩への傾倒
詩人への傾倒。
⇒(博物詩のような作品は顕著であるが、鏡を代表とする表題音楽、またガスパールではベルトランの詩集からの引用がある

博物詩(Jルナール)は自然の虫などを台際とした散文詩である。
(例「へび」:一言だけ、長すぎる)
ラベルはこれを歌曲にした。
孔雀の例では、散文詩では数行からなるものであるが、ラベルの音楽では1/4ページで終わっている。
これくらい簡潔なのである。
このことはフランス語の完全性論理性につながるものと言える。
(8)怪奇性やメルヘン性
⇒絞首台、やマメールロワ等が象徴的であろう
(9)課題性
あらゆる作品に対し課題性あり。ボレロや左手の協奏曲は明確にそれが見える。分析してみると和声や形式等への拘り規則性(=課題性)を感じるものが極めて多い。

⇒(1)〜(9)このような背景を理解するとラベルの音楽がまた一つ深く味わえるのである。いずれも極めて興味深く拝聴した。



2. 主要作品の年譜より

(1)新古典主義6人組との関係

ドビッシーはある意味完璧な音楽(理論的根拠が無く分析できない)であったためそのドビッシーの反動あるいは一線を画すという意味から自動性を尊ぶ手法にて新古典主義はできているという見方がある。
ラベルは新古典主義とは異なる。

⇒一般にはラベルは次第に新古典主義に傾倒と言われているが。
ラベルの求めた古典主義志向の方向は、音の中でドミナント進行がいかに強いかという点で古典主義を志向しドビッシーからの独自性を築いたという見方ができる。

⇒古典主義へのアプローチが異なると言う点は非常に納得した。
このドミナント志向がレンガ造りに力学を思わせる音の力学、音の運びの元となっている。
(これはクープランの墓のプレリュードの左手の和声進行では顕著)

また国粋主義ということから軍隊の志願を何度も試みたが軍人としての活動はままならず、そのような背景からクープランの墓では各楽章ごとに第一次世界大戦の戦死者にささげている。トッカータではマルグリットロンのダンナに捧げているのである。

(2)同時代を生きた作曲家

ブラームスはラベル22歳までグリーグはラベルが32歳まで生きており、またラベルはストラビンスキーとは音楽的交流もあったとのことである。

⇒音楽年表にて生年で大きく離れた作曲家は時代も主義も異なりその間の影響など考えもしないが、同時代生きていた作曲家は少なからず影響を与え合っていることは見落としがちなことである。
事実ラベルはストラビンスキーの春の祭典の構想を見る機会があり大きな影響を受けたと言うのである。

(3)水の戯れ
極めて印象主義的なこの作品はドビッシーの版画や映像に先立って出版されていることは特質に値する。
またこの段階で既に古典への啓蒙、ソナタ形式を使っていることも興味深い。
(4)フランスとの関係
ミラノの作品にて当然ローマ大賞を受賞できたはずではあるものの、体制への批判から逃している。その後審査院長であるコンセルバトワール校長デュポアが解任になったという。
53歳で3度目のレジオンドヌール賞(フランスの最高の勲章)を断ったのもこのような因縁が要因となっていたという見方もある。

3. 作曲家の意図を理解する
(1)全音楽譜出版社<ピアノ作品選集>
作曲家の作品を性格に世に残すことは重要であるが至難である。
作曲家の自筆は間違えだらけであるし、作曲者による修正譜、弟子による楽譜他多数の関連情報がありこれらを元に最も作曲家の意思を伝える楽譜を纏め上げることは極めて意味のあることである。
今回単に楽譜を出版するのではなく、ラベルの時代の背景、流れ、環境を調べその上でラベル像を世界観の中で見直すという趣旨で取り組んでいる。
これは作曲家が意図した真意を残す意味で重要なことであり、この楽譜はそういう意味で極めて貴重なものとなったと言える。
(2)作曲家の意図

ラベルが自作の指揮は単に三角形を描けばよいと言ったこと、あるいはストラビンスキーがある作品の初演指揮者に対し、余計なことをした、君の解釈をもたらしている、と言ったことなどから、作曲者は演奏者に対し単なる鐘のつき手となるよう指示している事実がある。作曲家の意図を汲むことは重要である。

⇒作曲家の意図を汲む努力は必要であるが、演奏家はそれでよいのであろうか。とてもそうは思えない。

(3)作曲者の同時期作品に注目

ソナチネは禁欲的、古典的手法にて書かれているがまさにこれか書かれている時、形式的には極めて自由な標題音楽である鏡を手がけている。
作曲家と言うもの、ある作品に没頭する際全く違ったものを並行して進めたくなるのは常でありこの場合はまさにそれである。
従ってソナチネを解釈する際鏡をそういう観点で解釈の手助けとする、ということも考えられるのである。

⇒こんなアプローチを考えたことすらない。さすが作曲家である。

(4)

フランスには「蛾」を特殊なものと捉えることはしない。
蝶の一種で、いうなれば夜の蝶である。
ラベルは敢えて「ノクテュエル」と題し、夜の街灯に集まる蛾を描写した。
ここにもドミナントによる旋法がみられるのである。

⇒「蝶」を題材とした作品は多くの作曲家が取り組んでいる。しかしラベルが敢えて「蛾」を題材に選んだのは、蛾は毒々しい色彩を持ち人々に与える印象は蝶よりはるかにインパクトがあるからではなかろうか。
そこに強いインスピレーションを感じのであろう。
そしてそこには当時の画家ダリのグロテスクな色彩を思い出さざるを得ない。ラベルの印象主義は絵画ではシュールリアリズムに通じる側面を感じる。
時間の関係であろうが講義の冒頭で言われた「音楽だけでなく多くの環境や他の芸術の関係の中で作品を見るべきという師の言葉からこの辺の議論に触れてもらえればさらに良かったと感じる。

(5)演奏家の価値

オンディーヌの左の旋律は水の精を描写している。
サンソンフランソワあるいは、マルタアルゲリッチの表現にはまさに演奏家による印象の追体験に基づく描写がそこにはあり、聴衆は自ら意識し得なかった感激感動を得るのである。これを演奏家の意味と言わずして何であろう。
サンソンフランソワは男性的、アルゲリッチは女性的である。

⇒フランソワはこの曲をロマンはの旋律として捉えているのでこのような表現となっている。
フランソワはラベルに限らず独自の解釈で極めてロマン的に、例えベートーベンであってもそう解釈するのである。これはある意味フランソワの独自の世界、とても魅力的な世界である。
一方アルゲリッチはオンディーヌの情景を淡々と描写したむしろその方が神秘的な情感が現れると言っているような感じである。私はこのように捉えている。決して男性的、女性的などというコメントはしてもらいたくない。

(6)意味、表現
いずれも伝える側の「意見」「表し」を伝えられる側は「味わい」「追体験として現す」ということである。
この「意」や「表」がない演奏など全く意味が無いのである。
(7)ラベルの手法

旋律:旋法(mode)を使うことが多い。教会旋法など(音の関係のさせ方を決めると言うこと)⇒イメージを作る
内声:最も精緻な非和声音でつなぐ⇒色彩となる
バス:ドミナント進行をいじる
例えばド、ファ、ソ、ドとなる古典進行のドミナントコードを一音下げる、あるいは上げるという手法である。
この解釈でかなり多くのラベルの音楽は分析できる。
クープランの墓のプレリュードやガスパールの絞首台などでもこのような手法が見られる。

⇒さすがに作曲家の分析はすごい。この理論で作品を見直すと面白いように解けてくる。
規則性がわかったからと言ってラベルの価値が下がるわけではないことを敢えて付け加えたい。

(8)ピアノ協奏曲(ト長調)

冒頭の左手は単なるトニック、ドミナントの単純な動きであるが、旋律に精緻な非和声音を持ってくることにより独特の世界ができている。

⇒残念ながらこの協奏曲は、リズムに特徴がありジャズの感覚を取り入れたものであることから、その印象が強く師の言うことが流れる音楽から感じ取れた人は少ないのではないかと思う。
例えはガスパールのオンディーヌの最後のカデンツァの部分、それは全く単純なCdurのドミナントのアルペジオのベースに非和声音を持ってくることによりあまりにラベル的な不気味な響きを醸し出しているような例の方がわかりやすかったのではなかろうか。

以上