人間は和声そのものが持つ特質をそのまま感じる部分と、和声の移り変わり、変化に対し感動する側面があるといえる。(ただしここではリズムの側面は無視している)
トニックをいくら連続して一定リズムで弾いてもそこには一定の安堵感はあったとしてもドラマは生まれない(特殊な印象を除き)。例えばサブドミナントからドミナント経由でトニックに推移したとき安定感を感じると言ったようなことである。
鍵盤の位置により一定の音あるいは和音が決められ、その時間的変化(速度)を旋律なり和声と捉えることができる。
和音を一定の速度(ベクトルとしての速度なので、速さの絶対値と方向を持っているということ)だと捉えたときその和音(速度)が次の和音に行くための変化、つまり
加速度を実際体に感じるというような例えができることになる。
トニックからサブドミナントへの移行は聞くものに、安定な状態に横からの力が作用されたというようなことである。
電車に乗っていて、速度の変化(加速度)を人間は感じ、ある時はその加速感にどきどきしたり、方向が変化することにより近い将来訪れる不安定感を予感したりするわけだが、この和声の変化(和声の加速度)が聞く者の心を左右する一要因になっていることは間違えない。
そしてその音楽的加速度(力)を古典音楽にあてはめてみることはたやすい。
しかしたとえばドビュッシーでは単なる加速度ということではしっくりこない。
雨の庭の和声の変化は個々の変化というよりその変化の変化により雄大な広がりを演出している。
パスピエの哀愁に満ちた表現は和声の変化の裏に隠された二次的効果により醸し出されているといっても良い。
また水の反映に見られる精緻な和声の展開の二次的響きがこの曲の重要な感情を形成していると感じる。
このようにドビュッシーの音楽を分析するに当たり和声の変化(加速度)だけでなく加速度の変化に注目した音楽という見方をしてみると面白い。
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