〜講演会を聴いて<感想1>〜
このように楽譜をよく研究しそれに従い忠実に弾くと間違えなくモーツアルトらしい演奏ができるのである。まさに「らしく」である。
それらしく弾いて「よく弾けたね」と言われてそれが何だというのだろうか。
この時代に生きてこの楽譜に接し弾いてみようと思った演奏者がまずこの音楽をどう感じてどう捉えて、そしてどう表現したいかということがまず第一にあるべきでありそれが全く抜けているのである。
この必然性がなくては、きれいに弾くことは単に「らしく」弾くための意味しかないのである。
多くの表現の手段を持つことは大変重要なことであるが、それはあくまで手段、メカニックに含まれるものであるという認識のもと指導すべきである。なぜならこの手段はそれだけでは全く音楽を奏でるものそのものではないからである。
一般に小さな子供がモーツアルトに魅力を感じるだろうか。
スケールが弾けてトリルが弾けてチェルニー30番が終わったということだけでモーツアルトを弾かせたとしたら、恐らく本人は前述の必然性を全く感じることはできずどんなに努力しても「らしく弾く」ことが最終の目的にしかならないのである。
こういうことを小さい頃から重ねていると、これが音楽の目的であると勘違いしてしまうのである。小さい子供はまだ指ができていないからダイナミックの幅は制限してでも表現についてはきちんと教えなくてはいけない、と講座の中で言っていた。
それなら、感受性の幅は狭かったとしてもその範囲の中で音楽を感じるということを最初から教育する、始めから本当のものを見せるという教育こそが大切であると感じる。
モーツアルトはくれぐれも無感動に弾いてもらいたくない作曲家の一人である。
古典派の音楽を知りロマン派の音楽を楽しみ、印象派、現代、新古典と触れ、やっぱりモーツアルトの洗練された感覚に憧れを感じてそれから触れてもらいたいものである。
もし今回のような形で音楽教育がなされているのだとすると、決して音楽を奏でる演奏家が出るとは考えられない。
以上
〜講演会を聞いて<感想2>〜
実力もなく感受性など微塵も持たないにも関わらずプライドだけ高く鼻持ち
ならない人種、自分の感覚が鈍いことをさておき他人への批判だけは人一倍
行い、新しい音楽、あるいは技術を得る努力はせずに硬直した固定観念が唯
一の理論だと思っている、そういうとても許せない自称音楽家で埋めつくされ
ているように感じた。
「永冨和子さん」なるそれはお偉い先生のようである。
・効果的かつ合理的なテクニック
・モーツアルトの演奏/解釈
という演題であったが、講演者自身冒頭に書いたような人種を生み出す権化
であることを改めて確信したという意味と、テクニックについては日頃考えてい
ることの確認ができたという点だけの収穫であった。
モーツアルトの場合楽譜に多くのことが書かれているということから、それ
らを丹念に注意して読み取り弾き方を研究しその結果を忠実に守ることによ
り自然な、いかにもモーツアルトらしい演奏ができるというのが主旨。
しかしこれはまさにモーツアルト「らしく」なのである。そしてそれが唯一の
到達点であるかのような講演が長々と続いたのであった。
そうやって弾いて「よく弾けたね」と言われてそれが何だというのだろうか。
今この時代に生きてモーツアルトの楽譜に接し弾いてみようと思った人が、
まずこの音楽をどう感じてどう捉えて、そしてどう表現したいかということ
が音楽に触れる「必然性」となるわけである。
それは時代環境によって当然異なって然るべき。
この必然性がなくては、多くの表現の手段を持っていてもそれは単に、より
「らしく」弾くためにしか寄与しないのである
一般に小さな子供がモーツアルトに魅力を感じるとは考えにくい。
スケールが弾けてトリルが弾けてチェルニー30番が終わったということだ
けでモーツアルトのソナタを弾かせるケースをよく見かけるが、それは感受性を
鈍らせる効果しかなく、最終目的は「らしく弾く」ということを摺りこむこと
にしかならない。
モーツアルトはくれぐれも無感動に弾いてもらいたくない作曲家の一人である。
古典派の音楽を知りロマン派の音楽を楽しみ、印象派、現代、新古典と触れ、
やっぱりモーツアルトの洗練された感覚に憧れを感じて、そういう状態で触れ
てもらいたいものと感じる。
今回のような形でお偉い先生によって音楽教育がなされているのだとすると、
決して音楽を奏でる演奏家が出るとは考えられない。
以上