ロマンは以前がもちろん、近代に入っても作曲家が演奏家を兼ねているケースは多く、ラフマニノフやプロコフィエフはその演奏者の側面が特に有名である。さらに演奏家とし有名な巨匠でも作品自体は取るに足らないものであったとしてもホロビッツが自作の作品をアンコールピースに選んだときはやんやの喝采を浴び盛り上がったと言われるのはよく理解できることである。
しかし、それ以降作曲家と演奏家はほぼ分離されている現状演奏家の役割を改めて考えさせられるのである。
ある人は作曲者の意図を丹念に調べ少しでも忠実に作曲者の意図を追体験すると同時に表現することに唯一の価値を見出している。
これはアプローチとしてまずは正しいといえる。
しかしここで敢えて提案したいのは、価値のある作品は一般的に多くの解釈が可能であり単一の感動でなく演奏者や聴衆それぞれの個性に応じた感激、言うなれば彼らの体によって写像されてそれぞれの人が新たな感動を得ることができるものである。
ちょうど噂が広がるが如く伝える人の付加価値をプラスして広めるというような状況に似たものがある。
演奏家はそういう観点で自分の演奏を以って作曲家の意図する音楽を自分の音楽として写像し、それを共有できる聴衆と共に作曲家の作品をもしかすると作曲家の意図とは異なるかもしれないものの、新たな感動を生み出す音楽へと発展させるのである。
演奏家にはこういうアプローチにより作品を広く捉え裾野を広げ価値を高めるという役割があると言ってよいのである。
|