演奏家の役割                         2005.08

1.演奏家の役割の変遷

ロマンは以前がもちろん、近代に入っても作曲家が演奏家を兼ねているケースは多く、ラフマニノフやプロコフィエフはその演奏者の側面が特に有名である。さらに演奏家とし有名な巨匠でも作品自体は取るに足らないものであったとしてもホロビッツが自作の作品をアンコールピースに選んだときはやんやの喝采を浴び盛り上がったと言われるのはよく理解できることである。
しかし、それ以降作曲家と演奏家はほぼ分離されている現状演奏家の役割を改めて考えさせられるのである。
ある人は作曲者の意図を丹念に調べ少しでも忠実に作曲者の意図を追体験すると同時に表現することに唯一の価値を見出している。
これはアプローチとしてまずは正しいといえる。
しかしここで敢えて提案したいのは、価値のある作品は一般的に多くの解釈が可能であり単一の感動でなく演奏者や聴衆それぞれの個性に応じた感激、言うなれば彼らの体によって写像されてそれぞれの人が新たな感動を得ることができるものである。
ちょうど噂が広がるが如く伝える人の付加価値をプラスして広めるというような状況に似たものがある。

演奏家はそういう観点で自分の演奏を以って作曲家の意図する音楽を自分の音楽として写像し、それを共有できる聴衆と共に作曲家の作品をもしかすると作曲家の意図とは異なるかもしれないものの、新たな感動を生み出す音楽へと発展させるのである。
演奏家にはこういうアプローチにより作品を広く捉え裾野を広げ価値を高めるという役割があると言ってよいのである。


2.演奏家による音楽の写像の価値

どのように表現するかの自由度の大きさ、それは曲の価値を決める一つの要素といえる。
だから演奏家の写像により多くの広がりを持つ作品は間違えなく価値のある作品である。

ショパンのマズルカのリズム感はポーランド人にしかわからない、などという演奏家がいるがこれはショパンの音楽を貶めているとしか言いようがない。なぜならショパンの音楽は間違えなく多くの広がりを持つ価値の高い作品であるからである。
ショパンはポーランド人にしかわからないレベルの音楽を書いているというのだろうか。
様々な環境にて育ち生活している人たちがそれぞれの感覚でショパンの音楽を捉えすばらしいと感じ表現する、それでこそ音楽としての可能性、広がりがあるのである。
従ってここに演奏家の意味も存在するのである。演奏家が作曲家の音楽をどのように捉え感じたかということを表現することにより、作曲家の音楽がある写像がされそれを良いと感じる聴衆がいる、つまりショパンのマズルカをある視点である感覚で捉えて表現する、それはポーランド人の言う、独特のリズム感を感じさせるマズルカの表現でないかもしれないが、それがある部類の聴衆たとえは日本人に捉えやすい、感激し易い表現になっていたとしたら、それは正統的だとか、異端だとかいうものではなく、音楽を新たな広がりをみせる、可能性を見せるということから非常に意味のなるものである。
私はショパンのマズルカの独特リズム感を強調しなくても、これではワルツかもしれないといわれるぎりぎりの線で、微妙にマズルカを意識しながら、「美しく、甘美に」奏でるマズルカが好きである。だからリズムは必要以上にきつく取りたくないし「歌」を忘れたくない。
こんな演奏はたぶんポーランド人にとっては「真のマズルカではない」と酷評されるだろうが、このアプローチには間違えなく「美」があり、たぶんこれを心地よく聞いてくれる聴衆も多くいると確信する。
そんな演奏は緒パンを冒涜するとでも言うのだろうか。それなら真のマズルカと言ってポーランド人しか理解できない演奏を行って、それをポーランド以外で演奏した場合、聴衆も当然理解できないのだから、そんな聴衆はショパンの音楽を聴く必要がないとでも言うのだろうか。
そんなこと言ってはそちらのほうがよほどショパンを冒涜しているのである。


3.演奏家の在り方
国民性や育った環境、年齢や性別、その他の色々な要素により同じ曲から感じるものは千差万別であり、それを引き出すのが演奏家の意味である、といえないだろうか。
曲の価値が高ければ高いほどどのように表現するかの自由度は大きいはずで、同時に聞き手の立場から見ての多くの感覚を持って聞けるはずと考える。
このクラスの曲ともなれば多くの聞き手が納得する様々な演奏がありそれを様々な演奏家が表現して作曲家が作曲した音楽の価値をさらに多様化し高め、多くの人に感動を与えてこそ、作曲家と演奏家そして聴衆という三位一体の音楽が形作られる。
こういう方向に演奏家は自らの価値を見出し最大限自分の音楽を表現してこそ演奏家としての価値があると言える。