ワルツにおけるショパンらしさ
1.はじめに
作品の中で最も民族的な感覚、ある意味でショパンらしさを感じるものはマズルカと言えます。
マズルカは独特のリズム感、アーティキュレーション感が必要なことは事実でそれが故にマズルカはポーランド人にしか弾けないなどとばかげたことまで言わせるのです。
こういうリズム感、アーティキュレーション感が、ある意味でショパンらしさを形成していることは事実で、この一部はマズルカに限ったことではないと言えます。
ショパンのワルツは最も広く親しまれたショパンの作品集と思われます。
ワルツは3拍子の踊りのリズムですからともすると踊りのバックグラウンドミュージックに成り下がってしまう可能性がありますが、ショパンのワルツは、音楽的に高く鑑賞するための芸術的音楽であることは誰もが疑う余地がないばかりか、極めて『ショパンらしさ』を感じる作品であることに驚きを感じます。
ではこのどこにショパンらしさがあるかということです。

2.旋律の中に見るショパンらしさ
7番や8番に見られる甘美な旋律はいかにもショパンらしいと言えます。
また5番の中間部に見られる自由で甘美な旋律は全くショパンらしい旋律といえます。ここには何の制約もない自由な音楽的空間を感じざるを得ません
しかしこのような旋律はワルツという形式である必要は全くなく、つまり3拍子である必然性すらほとんどないと思われます。
従って、ワルツにおけるショパンらしさを追及する場合やはり2項の内容、つまりワルツであるが故のショパンらしさに関する内容に帰着すべきと考えます。
3.リズム、アーティキュレーションの中に見るショパンらしさ
(1) 3拍子以外のリズム

ワルツの旋律を分析してみると3拍子の曲でありながら、旋律が一部2拍子、あるいは4拍子になっている作品が少なくありません。
代表的なものが6番「子犬」、あるいは4番「猫」です。

(2) 旋律の分析

4番で第一主題の部分を分析してみます。
左手は全く普通のワルツ(普通というのは例えばウィンナワルツの代表ヨハンシュトラウスくらい一般的なもの、ということを意味しています)であることは誰もが疑うことではありません。
では旋律だけ弾いてみると、Aから始まって4拍が一塊で(2拍という見方もできますが音楽的に4拍と見たほうが妥当と考えます)、それが3回繰り返されます。
この単純な下降旋律、これはどこにでもあるような全く陳腐な旋律としか感じられません。全くショパンらしいとは思えないのです。
この事実は6番の方が一層顕著とも言えます。
ここで重要なのが旋律の頭の拍です。
つまり4拍子の次の拍の頭5拍目、あるいは9拍目と言った部分です。
拍の頭ですから自然とアクセントが付きます。そしてそのある意味で唐突なアクセントを音楽的にカバーするにはそこに若干のルバートが付くこととなります。
このテンポルバートが大きな意味を持ちます。
(3) ショパンのテンポルバート
ショパンのテンポルバートは独特の感覚が必要でこれは『ショパンらしさ』を表す一つの重要な要素であることは疑うことではありません。最も著名なショパン弾き、アルフレッドコルトーがこのテンポルバートを自由に操り多くの聴衆を魅了したことは周知の事実です。
ショパンのテンポルバートは単にルバートの付いた音が強調されることだけの意味ではなく、リズムのずれ、「あそび」に最大の意味 、効果があるのです。
だからこのテンポルバートがショパンらしさを形作る大きな要素ですので、冒頭に書きましたようにマズルカは極めてショパンらしいと言えるのです。
なぜならマズルカには3拍子から全く予想もできないアクセント指示が随所にあるからです。
これがテンポルバートにつながることは前述の通りです。
(4) 演奏

 
4番のワルツに戻ります。第一主題の5拍目、9拍目のアクセント、テンポルバートは自然についてしまう、つまりショパンの指定であると言えます。
これがちょうどマズルカで普通に誰もが考え付かないようなところにアクセント指示があり、そこにルバートを付けて弾いていることに相当することになります。
従ってこの5拍目、9拍目を意識せずに弾くのは許されないはずなのに、必ずしもそういう意識で演奏されていないケースがあること、そういう分析など全く無視された指導を見ることは悲しむべきことです。
 子犬のワルツを単なる3拍子にしか聞こえない全くショパンらしさを無視した演奏をしてもショパンを捉えたことにはならないのです。
以上