ドビュッシー「雨の庭」主題の捉え方について      2005.08

1.
雨の庭

この曲は雨を題材とした描写音楽である。
雨自体の描写、次第に強くなる雨、雨の中の晴れ間等から感じる感情の描写、さらにはそれらがかもし出す異次元空間への導き、それらを和声の展開と和声の移り変わりの変化(いうなれば2次微分=和声の加速度)にて表現しているところがいかにもドビュッシーらしいところであり、聞き手を包み込むような魅力で訪仏とさせる瞬間がそこにはある。
この和声の加速度が音楽の根底に流れそれが音楽としての統一感と感動の源泉を生み出している。ドビュッシーを代表とする近代フランス音楽(印象派)と呼ばれそれば絵画の印象派とは異なるものではあるものの、この2次的和声感は印象派絵画を思い起こさせる要素があるとすら感じる。従ってドビュッシーらしさを論じる際この要素は非常に重要である


2.長調で強調される第一主題の違和感

そんな魅力的なこの曲のなかで、嬰ヘ長調の第一主題が出てきたところでどうしてもその主題自身に違和感を感じざるを得ない。
描写音楽という意味において、ここ部分を雨の降りしきる空に一瞬雲が切れた「晴れ間」を表現し、そしてそこに出てくる旋律はフランス人が誰でも知っている懐かしい童謡「幼な子よ、眠れ」の主題を長調にて強調して使っているところに気持ちの上での晴れ間という表現なのであろう。
そういうことを頭では納得したとしても、どうしても音楽的な違和感を感じざるを得ない。
この違和感をどう表現するかがこの曲の一つの大きな表現のポイントと言えると考える。


3.演奏家に任された自由度
この曲はドビュッシーの中でも見事に二次的和声感(別途研究テーマの「和声の加速度」にて詳述)にて音楽を表現したかなりの名曲であり、それだけにこの違和感をどう表現するかにより曲の持つ価値が左右される。
曲の価値が高ければ高いほどどのように表現するかの自由度は大きく演奏家に任される部分も大きいという見方がある。
そのことは同時に聞き手の立場から見ての多くの感覚を持って聞けるはずであるとも捉えることができる。
このクラスの名曲ともなれば多くの聞き手が納得する様々な演奏があり得、それを様々な演奏家が表現して作曲家が作曲した音楽の価値をさらに多様化し高め、多くの人に感動を与えてこそ、作曲家と演奏家そして聴衆という三位一体の音楽が形作られるのだと言える。
聴衆の国民性や育った環境、年齢や性別、その他の色々な要素により同じ曲から感じるものは千差万別であり、それを引き出すのが演奏家の意味である、といえないだろうか。
作曲家が意図した演奏、表現を推測することにあまり捉われすぎると音楽の秘めている価値、音楽の広がりを狭めてしまうという側面もある。


4.長調で展開される第一主題の捉え方
ここで問題の長調で出現する第一主題を考えてみたい。
フランスの童謡に感慨を感じ得ない人たちにこの晴れ間の旋律に見られる懐かしさ内面的表現を理解することは非常に難しい。例えドビュッシーがここの旋律をフランス人の郷愁に染み入るように演奏したいと考えたとしても、それを郷愁と感じられない部類の人たちには違和感としか感じられないのである。そういう演奏家と聴衆が一体の感覚を共有できたとしたら、つまりそういう風にしか感じられない人たちにもでもそれでも音楽として感動あり、むしろそれでこそ曲としての価値があり、色々な表現に耐えられる、そしで別の感動がそこにある、そういう世界へのいざないを演奏家が行う、という見方をしたい。
そう考えるとここの表現はもっと全体の雰囲気に溶け込む弾き方、むしろ2次的和声感を大切にした弾き方があり得ると考える。
私にはホ短調から嬰へ長調に移るだけで充分「晴れ間」を感じるのである。
ここは旋律を強調してはならない。
転調そのものを楽しむということで旋律を意識してはいけない、と考える。
元々ホ短調にて出てくるこの主題は極めて自然に流れる。この延長線上で嬰へ長調のこの主題を捉えたい。
移調の和声の変化を2次的和声感の中で捉え次の激しい単調に焦点を合わせるという弾き方が、少なくとも日本人の弾く正統的な解釈と考える。