山下亜紀子/ヘンリジグフリードソンピアノデュオリサイタルより

■日時:2001年8月20日19:00〜

■場所:ベルディアートサロン

■曲目:

@モーツアルト:ピアノソナタKV521(デュオ)

Aリスト:巡礼の年「イタリア」より

Bショパン:プレリュードより

Cショパン:スケルツオ3番

Dシューベルト幻想曲(デュオ)

Eブラームスハンガリー舞曲1,5,6番(デュオ)

■演奏会評

今回の演奏が通常のコンサートホールではなく演奏者と聴衆が一体になることができるアットホームな環境であったため響きという観点でかなり違和感を感じざるを得なかった。

サロンコンサートの場合部屋の容積に対する人の体積比率が大変大きいものとなる。

コンクリートとフローリングの部屋は残響が多すぎてもデッドになることはありえないが、あれだけの『人』がはいると超デッドとなる。そのため全体的に響きが足らなかったのが残念である。

恐らくリハーサルでは人のいない残響のある部屋で調整されたため、極度に音を抑えたピアニッシモのレガートスタッカートを多用し、またペダルも抑えることとなったのではないかと推測する。

あの環境ではもっと音を出しまたペダルをもっと多用しても問題ないはず。そのため、例えばシューベルトのcondelicatezzaで指定されたppの部分等が他の音との対比においてその部分の音楽的効果が十分発揮できないこととなってしまう。そういう意味ではモーツアルト、シューベルトについても通常通りsecond側がペダルを踏んだ方がよかったのであろう。しかしその反面、例えばAllegrovivaceの部分ではその多彩な音色がよく聞き取れ、考え抜いた音色、音楽をじかに感じることができた。

特に彼女の上部の旋律の見事な音色は本当に魅力がある。ソロでは顕著であるがこの、決して細くないのに澄んでいて説得力のある音は持って生まれたものなのだと感じる。その一方で激しい曲についてはよく計算され小さい体とはいえ見事なダイナミックスを表現している。ダイナミックはあくまで音の幅のことであり絶対的な音量のことではない。

音色と音量そして表現の幅を駆使しプレリュードの16や24を見事に弾いているのはまさに圧巻。23の解釈はあくまで24を意識したものであると理解する。

そのような中1番についての解釈の狙いがやや理解できない。それはシューベルトの始めの主題の表現に対する疑問に共通するところがある。

一方、モーツアルトの始めの導入部分はかなり研究されており説得力がある。リズム、音色共にぎりぎりのバランスが保たれ、見事としか言いようがない。この解釈で全体を統一していた。

冒頭でも述べた音響の問題はモーツアルトには特に厳しく作用しそのためともするとせっかくの解釈が音楽と分離してしまうとも感じられた部分があったところが悔やまれる。